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三浦按針について

第4回 その後のウィリアム・アダムズ(2009.12.09公開)

三浦按針墓 三浦按針墓  大坂冬の陣、夏の陣で豊臣方を滅ぼし、完全な徳川政権が誕生した翌年の1616(元和2)年に家康が75年の生涯を閉じました。これより、イギリス人の活動範囲が平戸だけになってしまい、アダムズも逸見を離れることになりました。
 主君であった家康の死は、アダムズの生活にも大きな影響を与え、平戸に移ってから4年目の1620(元和6)年、アダムズは日本に来てから20年目にして、56年の生涯を閉じました。
 逸見は、二代目三浦按針を継いだアダムズの息子のジョセフによる統治が続きました。
 鎖国制度が強化されていった江戸時代に、アダムズはどのように伝えられていったのでしょうか。江戸後期の地誌である『三浦古尋録(こじんろく)』には「唐人安針は江戸日本橋に住み、鳥商いをしていたが、その後逸見村に来て、亡くなった。臨終の折、江戸眺望の地へ葬りくれ」と言ったとあります。

安針塚への道標 安針塚への道標
(大正時代に設置。
写真はJR横須賀駅前のもの。
他に2基あり。)
 唐人は中国人というより、外国人と思った方がよいでしょう。鳥を商売にしていたというのは、どこからきたのでしょう。
 もうひとつ、『新編相模国風土記稿』には「安針は朝鮮の人。日本に帰化して三河に住み、砲術を得意にし、その術を諸士に伝えている」とあり、『相中留恩記略』に近い記述もあるのですが、その後に『長崎大記(たいき)』や『長崎実録大成(たいせい)』などを引用して、イギリス人であることを説明しています。
 また、「将軍の恩に報いるため、また江戸を守護するために、江戸を一望できる高台に葬るべし」との遺言によって、アダムズの墓である按針塚が造られたということも伝えられています。

『三浦按針と横須賀』(横須賀市企画調整部文化振興課)より