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三浦按針について

第5回 浄土寺と塚山公園(2009.12.13公開)

唄多羅葉(ばいたらよう)/念持仏 (左)アダムズが東南アジアから持ち帰ったといわれる
 唄多羅葉(ばいたらよう)
(右)アダムズが持ち歩いたといわれる念持仏
(ともに浄土寺所蔵)
 逸見の浄土寺はアダムズゆかりのお寺です。このお寺にはアダムズの念持仏であるといわれる六角の冠をつけた観音菩薩が安置されています。また紙ができるより以前に樹皮に経典を書き記した「唄多羅葉(ばいたらよう)」などがアダムズゆかりのものとしてあります。
 さらに1840(天保11)年に江戸日本橋安針町の人々が寄進した打敷(うちしき)なども残されており、江戸後期には浄土寺を中心にしてアダムズの法要が営まれたことが分かります。
 横浜が開港され、明治維新を迎えると、今度は居留地のイギリス人を中心に、日本に最初に来たイギリス人探しが始まりました。
 居留地で発行された英字雑誌『ザ・ファー・イースト』の1872(明治5)年6月号には、日本橋安針町を訪ねてアダムズ探しが行われたが、空振りに終わったという記事が紹介されました。
 横浜で貿易商を営むジェームス・ウォルタースは早くからアダムズに関心を示し、セーリスが鎌倉の大仏に寄ったことを手掛かりに大仏を訪れています。ここで「アダムズが横須賀の逸見という小村に住み、この地で没した」ことや「村の浄土寺にはその遺品がある」という情報を得ました。

ウォルターズが1872年に撮影した浄土寺 ウォルターズが1872年に撮影した浄土寺
(写真提供:浄土寺)
 喜んだウォルタースは早速浄土寺を訪ね、住職の案内で按針塚へ詣でています。この時、住職は、ウォルタースが訪れる前にも数人の外国人が浄土寺を訪れており、その中には按針塚周辺をスケッチしていった人がいたことなどを教えてくれました。
 ウォルタースのこうした行動も『ザ・ファー・イースト』に紹介されたので、記事を読んで逸見を訪れる人が多くなったのは言うまでもありません。この後もウォルタースはしばしば逸見に訪れましたが、その折に決まって立ち寄り、食事をしたのが、横須賀の港町にあった富士山ホテルでした。富士山ホテルは横須賀で最初のホテルであったと思われます。
 1874(明治7)年、ウォルタースが按針塚周辺の荒廃に嘆き、自費で修復していることを知った富士山ホテルの経営者安西善六は50円(現在の約200万円相当)もの資金を出し、ウォルタースの活動を支援しました。

桜の名所ともなっている塚山公園 桜の名所ともなっている塚山公園  明治20年代に入ると、東京毎日新聞に「按針塚が荒廃しており、横浜居留地のイギリス人たちは、これを外人墓地に改葬すべきである」という記事が掲載され、これを読んだ地元逸見の有力者鈴木福松らも立ち上がりました。鈴木の呼び掛けに三浦郡長の小川茂周(しげちか)や横須賀の戸長らが応え、横浜のイギリス領事ホールやウォルタースと鈴木が協議し、双方で250円(現在の約1,000万円相当)ずつ持ち寄り修理することになりました。

三浦按針祭観桜会 三浦按針祭観桜会  1902(明治35)年に日英同盟が結ばれるとアダムズの事跡が注目されるようになりました。そこで再び按針塚の改修が始まり、この時も鈴木福松が尽力し、神奈川県知事やイギリス大使まで動かして大規模な寄付金を募集しました。その結果、1906(明治39)年12月に大改修は終わり、現在の塚山公園の原型がここに誕生しました。また、この時はじめて塚の発掘が行われ、遺体を埋葬した形跡がないことも確認しました。
 塚山公園では第2次世界大戦前から、毎年「按針祭」が行われていましたが、1935(昭和10)年頃から中止となりました。戦後は1948(昭和23)年6月に復活第1回按針墓前祭を行い、以後、横須賀市ではアダムズの業績をたたえ、四大国際式典の一つとして、毎年4月8日に「按針祭」を開催しています。

『三浦按針と横須賀』(横須賀市企画調整部文化振興課)より