三浦按針について of 青い目のサムライ 三浦按針

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        按針の生涯と功績を順を追って解説します

アダムス誕生の地

アダムス誕生の地

メドウェイ.jpgジリンガム市(現メッドウェイ市)
アダムズは、1564年にイギリスのケント州ジリンガムに生を受けた。ジリンガム市(現メッドウェイ市)は、ロンドンの南東、メッドウェイ川に下流に位置する。漁師や船乗りが多く、アダムズが後に造船を学び、船乗りとして世界を駆け巡る生涯を送る環境は充分に備わっていた。三浦按針の生まれた都市として横須賀市と『姉妹都市』の関係にある。毎年「ウィリアム・アダムズ・フェスティバル」が開催されている。

●姉妹都市提携:1982年 4月8日(旧ジリンガム市と姉妹都市提携)
        1998 年 8月26日(メッドウェイ市となり再提携)

アダムスの出航(1598年6月:33歳)

アダムスの出航(1598年6月:33歳)

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リーフデ号日本までの航路

オランダの東洋遠征探検艦隊の航海士として弟トマスらと共に、5隻の船団でロッテルダム港より出航。次々と難が襲い航海は惨憺たる有様でリーフデ号ただ1隻となった。乗組員は24人に減り、弟トマスも死亡。

リーフデ号 漂着(1600年4月)

リーフデ号 漂着(1600年4月)

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漂着地 大分県臼杵市佐志生 黒 島
豊後の臼杵に漂着し、自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵藩の藩主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。漂着時、歩行可能な者はアダムスも含め、わすか6名しか残っていなかった。

大老 家康に謁見(1600年5月)

大老 家康に謁見(1600年5月)

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大阪城にて大老家康と謁見
漂着から9日目、病気の船長に代わりアダムスは大坂城へ。家康に持っていた世界の海図を見せ辿った航路を示した。海賊ゆえ処刑すべきと吹き込まれていた家康だったが臆せず説明するアダムスを気に入り全員を釈放した。

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江戸 日本橋

江戸 日本橋

日本橋石碑.jpg

東京日本橋
家康に迎えられて江戸に入り、アダムスは日本橋按針町(現室町一丁目)に屋敷を給ぜられた。家康に様々な学問を教え、外交特に通商の顧問として大きく貢献した。1602年頃に大伝馬町の名主の娘「ゆき」と結婚、2人の子を授かる。

写真は日本橋室町一丁目 按針通りにある『三浦按針屋敷跡』石碑

日本初洋式帆船建造(1604年)

日本初洋式帆船建造(1604年)

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静岡県伊東市 船大工としての経験を買われ、家康の命により80トン、120トンの洋式帆船を日本で初めて建造する。

三浦郡逸見の領主へ(1605年)

三浦郡逸見の領主へ(1605年)

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当時の逸見の風景(相中留恩記略より掲載)

横須賀市逸見
徳川家康は帆船建造の功績を賞し、慶長10年(1605年)に帯刀を許したのみならず相州三浦郡逸見に二百五十石の知行を授け、三浦按針と名乗らせ旗本侍とする。「按針」とは水先案内人の意味である。

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img_vol04-01.jpg按針は元和6年(1620年)、56歳で亡くなる。生前からの「我死せば、東都を一望すべき高敞の地に葬るべし、さあらば永く江戸を守護し将軍家の御厚恩を泉下に報じ奉らん」との彼の言により、逸見村の浦賀道の道中にある峠(現在の按針塚)の高台に供養塔が建てられた。大正12年(1923年)に国指定の史跡となる。
その後、逸見は二代目三浦按針を継いだアダムズの息子のジョセフによる統治が続きました。

商館の設置に貢献(1616年)

平戸英国商館を拠点に南蛮貿易を

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長崎県平戸市
家康が亡くなり、幕府の方針で貿易を長崎県平戸のみに制御し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となり横須賀市逸見を離れ平戸へ向かった。
オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになったのは、按針の力によるところ大であったといわれている。

平戸に移ってから4年目の1620(元和6)年、アダムズは日本に来てから20年目にして、56年の生涯を閉じました。

ガリバー旅行記について

ガリバーのモデルになったのは『青い目の侍』だった!?

ガリバー.jpg   3代目横須賀のガリバー

横須賀市観音崎
誰もが幼少期に読み親しんだ「ガリバー旅行記」(イギリス人のジョナサン・スウィフト作)は、1726年の発刊、日本は徳川吉宗が将軍だった時代です。ところで、このガリバーのモデルがアダムズだということをご存じですか。ガリバーが訪れた国の中で唯一実在する国で1709年5月「日本の南東部」にある小さな港町ザモスキーに上陸したとあります。その港は「町は長い腕のような格好で北に伸びている細い湾の西の岸にあり、湾の北西部には首都のエドがあった」と表されています。このザモスキーの英語のスペルは、XをKにMをNに換えるとなんと観音埼になるのですどうですか、ガリバーがアダムズだと思いませんか。イギリスの人々にとってアダムズは未知の国日本への興味や好奇心を駆り立てるに充分な人物だったでしょう。


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